数週間前にベトナム訪問を決めたことは、彼に道徳的なジレンマをもたらしました。
今学期、彼は勉強のために滞在しているタイのチェンマイから、頻繁に近隣の都市や他の東南アジア諸国へ週末旅行をしています。費用や滞在場所など、私は事前にするべき事を検討し、バンコク、シンガポール、バリへのフライトを予約する前にも、すべてを準備してきました。
しかし戦争の歴史を考えると、ベトナム訪問の決定は、複雑な思いがしました。私が故郷と呼ぶ国インドネシアでは、軍事的利益のために罪のない村の収穫や川を汚染したことはありません。アメリカ軍はシンガポール人と民間人の家族を撃ち殺すことはなく、自分たちの故郷で発射しました。それらの場所へは、ただの一観光客として行けることは分かっていました。
ベトナムでは、「アメリカ戦争」と呼ばれたものを生き抜いた多くの人々が、まだ生きています。私は彼らがどの程度、米国からの市民を歓迎するだろうかと不安でした。
VNExpress InternationalとReutersでひとつの記事を見つけましたが、それには、2017年のベトナム人回答者の84%が、「米国に対し、非常に又はやや好意的な見方をしている」と載っていたのです。これは、彼と旅行のパートナー、カリフォルニア州立大学の先輩であるEmil Haarmansを安心させました。
その後、我々はNguyễn Anという名前のベトナム人大学生に会いましたが、彼は、その数字は正しいと思われるし、自分の知人はあなた方を受け入れると言ってくれたのでした。
そして彼らはアメリカ人の我々を本当に歓迎してくれました。彼らは週末中、我々を敬意とおもてなしで迎えてくれたのです。一部の人達は、歓迎という言葉を出さずとも歓迎してくれました。
木曜日にはホーチミン市(サイゴン)に飛び、翌朝、近くのクチという街に行きました。そこでは、トレンチ、爆弾クレーター、ブービートラップ、17キロメートルのベトコントンネルへの入り口がある古いジャングル戦闘ゾーンを通過しました。
1948年から1966年の間に全国で、すべてのトンネルが一緒に250キロメートル伸びましたが、ほとんどのアメリカ人とフランス人の兵士が収まらないほど、狭すぎました。この戦争には、第二次世界大戦と朝鮮戦争を合わせたくらいの量の爆弾が投下されたため、歩兵は地下にもぐる必要があったのでした。
「ベトナム戦争は破壊の戦争だった」とツアーガイドは、そこで使われている一般的な言い回しをエコーさせます。
射撃場や充実したギフトショップがあるこの場所は、外傷性ゲリラ戦の歴史と現代のエンターテイメントを並べたものです。しかしその午後遅くに行った、ホーチミン戦争レムナント博物館では、その流血の規模をより露骨に表わしていたのです。
博物館の入り口には、修復された航空機、大砲の砲弾、戦車、ボート、その他の戦争機械のギャラリーがあり、ベトナム語と英語で、それらの印象的な仕様を示しています。これらを見ると、戦争が300万人のベトナム人(そのうち200万人の民間人)を殺し、200万人を負傷させ、さらに30万人が行方不明になった様子がわかります。
Agent Orangeの展示では、450万人のベトナム人のうち300万人に影響を与えた化学的森林破壊と水質汚染キャンペーンのストーリーが語られました。
「1961年から1971年まで」とあるパネルには、「米軍はベトナム領土の25%の26,000ポイントに、約80,000,000リットルの化学物質と366キログラムのダイオキシンを含むエージェントオレンジを散布した」とあります。
このギャラリーには、侵食された皮膚、死んでいる手足、象皮病のような嚢胞、および骨盤のすぐ上で結合し生まれた双子の赤ん坊の写真がありました。自分自身が化学物質にさらされたと知った人たちは、たとえ症状がなくても、子供をつくらないことを選んだと説明しています。博物館は、この毒によって、ベトナムには現在150,000人の第2世代の犠牲者、35,000人の第3世代、2,000人の第4世代の犠牲者がいると伝えていました。
戦争犯罪の展示では、プラカードの上にグラフィック写真が表示され、同様に悲惨な物語がありました。それは、尋問と拷問を受けている民間人、地元の村で子供たちの前で射殺された母親、化学兵器による死体が含まれていました。
他の部屋では、露出フォトジャーナリストのラリー・バロウズ氏や、戦争に抵抗したアメリカ兵など著名人を記念しています。又、トリビュートアートワークと、高さ12フィートのギロチンを備えた「再教育」(「集中」と呼ばれることもある)キャンプの展示を見ました。
我々の次の目的地であるダラット大学では、バドミントントーナメントに招待してくれたAnさんに会いました。彼はダラットのホステルで働いており、市内のフードツアーを案内しています。翌夜、彼とホステルの所有者である28歳のBinh Nguyenさんが、そのツアーに連れて行ってくれました。
私は両国の現在の関係について地元の人たちと話をしたいと伝えました。アンさんは、ベトナム人は暗い日を忘れていないが、先へ進むために意識的な努力をした、ベトナム人は、新しい世代の幸せのために、恨みや復習よりも平和を求めているのだと言いました。
祖父が戦争で戦っていたNguyenさんは、人々を国の産物としてではなく個人として見たいと言いました。
ベトナムで出会った数人の人々は、クリントン大統領政権の経済的賠償を、戦後の情けとして認めていました。Nguyenさんは又、フランスの植民地化は彼らが楽しめる文化を残したとも言っています。それにはバンミーサンドイッチや、肉、卵、野菜、ソースが入ったバゲット風のパンなどもが含まれているそうです。個人的に私は、週末にそれを約7個食べました。
私の良心を少し和らげ、希望を与えてくれた言葉で話は締めくくられました。そのシンプルさは、私が出会った多くのベトナム人の善良な性質を反映しています。
「私達は幸せだと伝えてください」